撃ち抜けないのは、美女の心と物事の急所だけさ。
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映画『セッション』を観てきた。
『セッション』は、世界的なジャズ・ドラマーを目指し
この作品で鬼教師フレッチャーを演じるJ.K.シモンズは
…ってなわけで大丈夫でしょうか。
映画、いかがでした?
感動しました?スカッとしました?
ごめんオレね、ラストがもう本当に釈然としないんだよ。
最後にフレッチャーがニーマンを認めてしまったら、
狂おしいほど自身が追い求めていた「完璧」ってなんだったのさ、と。
半年か、1年か、期間はよく分からないのだけど、
少なくとも一定期間ドラムを忘れ、音楽から離れていた
ブランクのある奴が我を忘れて叩きまくった早打ちドラムに
当のお前が衝撃を、感銘を受けちゃだめだろと、正直そう感じたよ。
自分はJAZZはもちろん音楽を語れるほど何かを知ってる訳じゃないけれど、
少なくとも映画を観るにあたっては「その物語の中では至高の演奏」であり
「最高の一瞬」が訪れていたと観るのが正解で、なおかつ
才能がありとあらゆる努力を凌駕する瞬間ってのも確かにあるのだろうけど、
ことこの映画の、このフレッチャーの立場から言えば、
今のこの主人公のドラムを認めてしまってはダメだったと思う。
物語の芯がぶれた気がした。説得力がなくなった気がした。
こんなんだったら、それこそ夕日の沈む河原で殴り合いの喧嘩をしたら
友情が芽生えました的なノリとそんなに変わらない。
音楽って、芸術って、もっとこう求めても求めても求め足りないような
悪魔的な魅力があるもんだと、全てを捧げても惜しくないと思えるような
圧倒的な引力があるんだと、フレッチャーは身を以て表現していた。
ならばこそ、その演奏には一切の妥協を許さない。
そこに想いがあって、うねりがあって、高揚感があって、
そしてそれを完璧に表現できるだけの圧倒的な技術があって、
その技術は当然のように一朝一夕で手に入るもんじゃなくって、
朝から晩までドラムのことばかり考えて、何をするにも頭から離れなくて
死に物狂いで努力して、血ヘド吐いてやっとの思いで掴みかけて、
そしてそれを昇華させるためにまたさらに痛い想いをして、
でもそれが輝くのはほんの一瞬で、そんな結晶のような、
奇跡のような瞬間を、至高の輝きを求めていたのは他の誰でもない、
フレッチャーお前だったんじゃないのかよ、と。
それはおよそ常人には理解し難い感覚かもしれない。
でもだからこそあの狂気にも似た指導が必要だと考えていたんでしょ、と。
にもかかわらず今この主人公を認めてしまったら
ちょっと勘違いして色気を出して現場に戻ってきたような、
そこに捨てた彼女を呼ぼうとするような奴を認めてしまったら、
今まで自身が積み上げてきたすべてを否定することにならないの?と。
確かに主人公側からみれば、この結末はアリだろう。
しかし、その直前の描写─心が折れ、音楽の全てを投げ出した
壊れた主人公が描かれていたからこそ
このフレッチャーの行動は本当に納得できなくて、
理解できなくて、全くもって釈然としなかった。
全体を通して面白かったし、本当に演出はすごかったけど、
この脚本と結末、それを認めてしまった監督にちょっとがっかりしたし、
なんだか興を削がれたような、そんな印象が残ってしまった。
これ上映にあたって大幅なカットがあったのかと
思わず勘ぐってしまうような、そんな唐突な結末に感じた。
もし自分がこの結末でもって脚本を書くとしたら、
主人公ニーマンを、あんなことがあっても、どんなことがあっても、
悪魔に憑りつかれたかのようにドラムのことを片時も忘れない
狂気の青年として最後まで描ききっただろう。
演奏する場を追われ、叩きたくても叩けず、
輝かしい未来への道の一切を絶たれたとしても、
寝ても覚めてもドラムのことしか考えない。
そこまでしてもなお辿り着けるのは一握りの人間だったけれど、
しかしニーマンはあの最後の瞬間、自身をそこに初めて昇華することができて、
だからこそフレッチャーは彼を認めざるを得なくて…
たぶん、自分ならそうする。貫く。
その方が説得力があるし、観る者に達成感と満足感を感じさせることができる。
逆に、あの主人公の描写を活かすのであれば、
最後までフレッチャーはニーマンを認めることなく
ニーマンの最後の暴走をさらに圧倒的な狂気でねじ伏せる。
「お前のような奴はここまで昇ってこれない。場違いだ、帰れ!」
とでも罵りながら、その信念を貫く。
芸術に憑りつかれた者は、常に境界線を歩いているかのような
狂気にも似た研ぎ澄まされた感覚でもって世界を歩き、
それはおよそ常人には理解できないものなのだと、
そんな作品にしてしまうと思う(興業的にウケるか分からないけど笑)。
今回観た『セッション』のこの結末はね、
主人公ニーマンも、鬼教師フレチャーも、
どちらも最後まで信念を貫き通すことができなかった、
途中で壊れてしまった、妥協してしまった、
そんな風にオレの目に映って、なんだかとても残念だった。
素晴らしい映画だっただけに、最後のその瞬間があまりにも見事だっただけに、
どうしても、どうしても気になってしまうんだ。
『セッション』は、世界的なジャズ・ドラマーを目指し
名門音楽学校でドラムを専攻する主人公ニーマンと、
完璧を追い求め、天才を生み出すことに憑りつかれた
鬼教師フレッチャーとが織りなす狂気の物語。
凄かった。
凄かった。
映画館でこんなにも手に汗握る体験は久し振りで、
実に見事な、圧倒的な映像表現だった。
自分がこの作品を通して観たかった、期待していた、
自分がこの作品を通して観たかった、期待していた、
天才が、その圧倒的な才能が、全てを捧げ、尽くし、情熱を傾け、
しかしそれでもなお届かない、足りない、
そんな求めてやまない至高の「域」が芸術の世界には確かに存在し、
そして観客は、作品を通してのみその世界を垣間見ることができるのだと、
そんな求めてやまない至高の「域」が芸術の世界には確かに存在し、
そして観客は、作品を通してのみその世界を垣間見ることができるのだと、
そんな世界に足を踏み入れたような気になれるのだと、
錯覚のような、幻のような、常軌を逸した非日常の体験。
漫画『昴』を読んでいるときに感じたゾクゾクするようなあの世界、
常軌を逸した狂気の世界、この映画にはそれを観客に感じさせる力がある。
自分はそう感じたよ。
常軌を逸した狂気の世界、この映画にはそれを観客に感じさせる力がある。
自分はそう感じたよ。
この作品で鬼教師フレッチャーを演じるJ.K.シモンズは
アカデミー賞助演男優賞に輝いたらしいけれど、
それも納得、ぐうの音も出ないくらい圧倒的な存在感を放っていた。
しかし…だ。
ここから先は個人的な、捻くれ者の戯言のような意見なのだけど
しかし…だ。
ここから先は個人的な、捻くれ者の戯言のような意見なのだけど
映画を観終わったあと徐々に明るくなる館内で自分の中に残っていたのは、
腑に落ちない、納得できない、理解できない、実に釈然としない感情。
ここから先はネタバレを含みます。
ここから先はネタバレを含みます。
映画館でも、レンタルでも構わないけれど
観てから読まれることをおすすめします。
─(ここからネタバレ)───────────────────
観てから読まれることをおすすめします。
─(ここからネタバレ)───────────────────
…ってなわけで大丈夫でしょうか。
映画、いかがでした?
感動しました?スカッとしました?
ごめんオレね、ラストがもう本当に釈然としないんだよ。
最後にフレッチャーがニーマンを認めてしまったら、
狂おしいほど自身が追い求めていた「完璧」ってなんだったのさ、と。
半年か、1年か、期間はよく分からないのだけど、
少なくとも一定期間ドラムを忘れ、音楽から離れていた
ブランクのある奴が我を忘れて叩きまくった早打ちドラムに
当のお前が衝撃を、感銘を受けちゃだめだろと、正直そう感じたよ。
自分はJAZZはもちろん音楽を語れるほど何かを知ってる訳じゃないけれど、
少なくとも映画を観るにあたっては「その物語の中では至高の演奏」であり
「最高の一瞬」が訪れていたと観るのが正解で、なおかつ
才能がありとあらゆる努力を凌駕する瞬間ってのも確かにあるのだろうけど、
ことこの映画の、このフレッチャーの立場から言えば、
今のこの主人公のドラムを認めてしまってはダメだったと思う。
物語の芯がぶれた気がした。説得力がなくなった気がした。
こんなんだったら、それこそ夕日の沈む河原で殴り合いの喧嘩をしたら
友情が芽生えました的なノリとそんなに変わらない。
音楽って、芸術って、もっとこう求めても求めても求め足りないような
悪魔的な魅力があるもんだと、全てを捧げても惜しくないと思えるような
圧倒的な引力があるんだと、フレッチャーは身を以て表現していた。
ならばこそ、その演奏には一切の妥協を許さない。
そこに想いがあって、うねりがあって、高揚感があって、
そしてそれを完璧に表現できるだけの圧倒的な技術があって、
その技術は当然のように一朝一夕で手に入るもんじゃなくって、
朝から晩までドラムのことばかり考えて、何をするにも頭から離れなくて
死に物狂いで努力して、血ヘド吐いてやっとの思いで掴みかけて、
そしてそれを昇華させるためにまたさらに痛い想いをして、
でもそれが輝くのはほんの一瞬で、そんな結晶のような、
奇跡のような瞬間を、至高の輝きを求めていたのは他の誰でもない、
フレッチャーお前だったんじゃないのかよ、と。
それはおよそ常人には理解し難い感覚かもしれない。
でもだからこそあの狂気にも似た指導が必要だと考えていたんでしょ、と。
にもかかわらず今この主人公を認めてしまったら
ちょっと勘違いして色気を出して現場に戻ってきたような、
そこに捨てた彼女を呼ぼうとするような奴を認めてしまったら、
今まで自身が積み上げてきたすべてを否定することにならないの?と。
確かに主人公側からみれば、この結末はアリだろう。
しかし、その直前の描写─心が折れ、音楽の全てを投げ出した
壊れた主人公が描かれていたからこそ
このフレッチャーの行動は本当に納得できなくて、
理解できなくて、全くもって釈然としなかった。
全体を通して面白かったし、本当に演出はすごかったけど、
この脚本と結末、それを認めてしまった監督にちょっとがっかりしたし、
なんだか興を削がれたような、そんな印象が残ってしまった。
これ上映にあたって大幅なカットがあったのかと
思わず勘ぐってしまうような、そんな唐突な結末に感じた。
もし自分がこの結末でもって脚本を書くとしたら、
主人公ニーマンを、あんなことがあっても、どんなことがあっても、
悪魔に憑りつかれたかのようにドラムのことを片時も忘れない
狂気の青年として最後まで描ききっただろう。
演奏する場を追われ、叩きたくても叩けず、
輝かしい未来への道の一切を絶たれたとしても、
寝ても覚めてもドラムのことしか考えない。
そこまでしてもなお辿り着けるのは一握りの人間だったけれど、
しかしニーマンはあの最後の瞬間、自身をそこに初めて昇華することができて、
だからこそフレッチャーは彼を認めざるを得なくて…
たぶん、自分ならそうする。貫く。
その方が説得力があるし、観る者に達成感と満足感を感じさせることができる。
逆に、あの主人公の描写を活かすのであれば、
最後までフレッチャーはニーマンを認めることなく
ニーマンの最後の暴走をさらに圧倒的な狂気でねじ伏せる。
「お前のような奴はここまで昇ってこれない。場違いだ、帰れ!」
とでも罵りながら、その信念を貫く。
芸術に憑りつかれた者は、常に境界線を歩いているかのような
狂気にも似た研ぎ澄まされた感覚でもって世界を歩き、
それはおよそ常人には理解できないものなのだと、
そんな作品にしてしまうと思う(興業的にウケるか分からないけど笑)。
今回観た『セッション』のこの結末はね、
主人公ニーマンも、鬼教師フレチャーも、
どちらも最後まで信念を貫き通すことができなかった、
途中で壊れてしまった、妥協してしまった、
そんな風にオレの目に映って、なんだかとても残念だった。
素晴らしい映画だっただけに、最後のその瞬間があまりにも見事だっただけに、
どうしても、どうしても気になってしまうんだ。
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